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Vol.1460 ジーン・ポーター追悼〜ハリウッドの中堅女優さん
 1940年代にMGM映画のフレッシュな女学生役で記憶に残る女優のジーン・ポーターが、今年の1月に亡くなりました。ジーンは、アメリカ人にしては小柄(身長152cm。淺野康子さんが同じ身長)ですが、目が大きくて、声に特徴がありますので、女優が沢山出演する場面でも決して埋もれる事はありませんでした。

 実は、私が観たジーンの映画はたったの3本です。
 『The Youngest Proffession』
 『世紀の女王』
 『凸凹ハリウッドの巻』

 いずれも1943年から1945年に製作されました。人気のあった凸凹コンビのルー・コステロの恋人役みたいに大きな役ばかりなのに、映画での名前の序列は完全に助演者扱いでした。
 そんな中、ジーン・ポーターが一番華やかな活躍をみせたのが、水着の女王エスター・ウィリアムス売り出しの大作ミュージカル映画『世紀の女王』(1944)でしょう。主演のレッド・スケルトンが入学する女子校のリーダーみたいな役柄で出番も台詞も多いだけでなく、ミュージカル・ナンバーではレッド・スケルトンと歌のデュエット、しかもハリー・ジェームス楽団をバックに歌ったり踊ったりの大活躍をしました。

 「ジーン・ポーターさんが亡くなりました!」みたいな追悼記事は残念ながら日本では全く報道されませんでしたので、仕方なくアメリカの新聞記事等を拾い読みすると、彼女のキャラクターからは信じられない様なシリアスな文章にぶつかります。
 ジーンはMGM映画との契約を解除した後、小さな映画会社と契約して、さらにある映画監督と結婚をしました。そのお相手がハリウッドを襲った共産主義者を弾圧する赤狩り事件で、《ハリウッド・テン》として吊し上げられたエドワード・ドミトリク監督(ユダヤ人問題を扱った『十字砲火』が1948年アカデミー監督賞にノミネート)だったのです。近年、伝記映画が作られた脚本家のダルトン・トランボと同じ位、ひどい目にあった映画人であります。ジーンも苦労したのですね。
 ドミトリク監督は、後にハリウッド映画に返り咲きましたがハリウッド・テンのレッテルは一生ついて回りました。
 ジーン・ポーターが青春時代から亡くなるまでの95年間、何を思って生きてきたのか?その人生を知りたいものです。

 ジーン・ポーターのご冥福をお祈りいたします。

天野 俊哉


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